真夜中、岸壁に腰かけていると、突然、足首をつかまれる。
驚いて足もとを見やると、海面から無数の白い手が伸びている。
…“よくある” 怖い話だ。
さりとて、これを「ただのつくり話」と一笑に付すのは、早計かもしれない。
20年以上前、東京湾に接する中核都市に、小さな漁港があった。
隅には絡まり合った漁網が無造作に積まれ、異臭を放っている。
沿岸漁船だろうか。
係留された小型船は、どれも、疾うの昔にその役目を終えているようであった。
浮力を失ったものは、折り重なるようにして、海底に船体を横たえている。
波間に漂う数艘も、潮風にさらされながら、己の体が朽ちていくのを粛々と受け入れているようである。
泊地の波音は静寂よりも静かであり、そこは物寂しい廃港であった。
当時、この場所には、地元の友人とよく夜釣りに訪れていた。
そのうちの一人が後輩のKである。
Kはいたって普通の人間—それどころか、心から信頼できる、誠実な人柄のもち主—なのだが、、
いかんせん、霊感がすこぶる強い。
その霊感とは、本人曰く、
〈昼間、街中で、普通に霊とすれ違うレベル〉
なのだという。
思わず「頭大丈夫ですか?」と言いたくなるところだが、、
それほどの霊感をもつKとの釣行では、しばしば、背筋が凍るような思いをさせられてきた。
真夜中、房総半島のダム湖の周回道路を車で走っているとき、
「あっ、数人いますね…」
と、(どう見ても人っ子一人いない山道で)唐突に言ってきたり、、
釣りをしている最中にも関わらず、その実直さからか、
「さっき肩を叩かれました」
「あそこに一人座ってます」
「今、先輩のこと見てますよ」
などと、(できれば言わないでほしいことを)律儀に教えてくれたりするのだ。
Kと初めてこの漁港—といってもすでに廃港であったが—を訪れた際にも、すぐ横で、
「先輩きました!」
と言うので、当然私は“魚が掛かった”ものだと思ったのだが、続けて彼の口をついて出た言葉は、
「足つかまれてます」
であった。
それからは、この場所で釣りをする度、
毎度、
見えない何かに足をつかまれたり、後ろから押されたりするKの姿があった。
初めの頃、私は怖くて仕方がなかった。
しかし、いくら怖いといってもそのうち慣れるもので、、
数回めからは、彼からの「つかまれた」「押された」という訴えに、笑いをこらえるのに必死であった。
(声に出して笑わなかったのは、霊がこっちに来そうで怖かったからである…)
Kに「漁港周辺を彷徨う霊の数」を尋ねると、しばらく周囲を見渡した後、いつも決まって「8人です」と答えるのであった。
私は、てっきり、「この辺りの海で“最近”亡くなった人の霊」だと思っていたのだが、
一度、Kから、「揃って質素な格好をした男性…昭和初期の漁師のようだ…」と聞いたことがある。
廃船にいるものもあれば、岸壁に立っているもの、、
数人は海中からじっとこちらを見ているらしい。
そして、突然、
手を伸ばして足をつかんできたり、
隣に座って顔をのぞき込んできたり、
後ろから突き落とそうとしてきたりするのだという。
(私には全く見えなかったが、彼がそう言うのだからそうなのだろう…)
さて、冒頭の“よくある”怖い話…
大抵の場合は、その後、
「ものすごい力で海に引きずり込まれる」とか
「心の中で必死にお経を唱えているうちに足がふっと軽くなる」
というオチがつくだろう。
「大声で一喝すると霊が退散した」
などという、武勇伝にも似た話もよく聞く。
しかし、Kは違った。
筋力によって霊に打ち勝つ
という稀有な存在であったのだ。
上背こそないものの、高校のハンドボール部で活躍していた彼は、運動能力も高く、並外れたパワーのもち主であった。
「つかまれた」とボソッと言った後には、確かに、「んっ!」と力を込めて足を振り払っていたし、
本人曰く“霊数人がかりで後ろから押された”ときも、その体幹の強さからか、全然大丈夫であった。
(そのときも数メートル隣で釣りをしていたのだが、確かにびくともしていなかった)
本当に押されていたのだろうか…。
※水辺では必ずライフジャケットを着用しましょう!
(話は逸れるが、印旛沼で“本物の”遺体を発見したときもKと一緒だった)
大規模な工事によって、現在ではすっかり様変わりしてしまった。
漁港は跡形もなく、きれいな岸壁が一直線に続く。
釣り人の数も当時よりずっと多い。
お互い忙しくなってしまい、Kと釣行することはなくなってしまった。
8体の霊は、未だこの場所を彷徨っているのだろうか。
戦時中、私の祖父はここからほど近い海堡にいた。
幼い頃に聞いた話だが、砲撃によって敵機を撃ち落とすため、距離や砲身の角度を計算する観測班であったらしい。
しかし、実際に敵機が現れることはなく、終戦を迎えたという。
その会話の中に、印象深い一節がある。
従軍中、祖父らは、
「溺死者を運んで、○○港に並べた」
と言うのだ。
○○港は先の廃港である。
釣れ釣れ度■■■□□
ロスト度■□□□□
レア度■■■□□
「港に運んで並べた遺体の数が8体だったのか、それとも8名が行方不明のままなのか、若干気になるところではある」度■■■■□